『大家さん』は最終兵器
きららの系譜を辿ったような、主として和みを重視する作品を多く愛好しながら、実態はそこに潜む謎の部分を突き詰めようとしてしまう。
そんな自分が別ベクトルから愛好する作品『大家さんは思春期!』の、今日発売になった最新6巻を読了。
ここは思考と嗜好の雑多極まる僻地
きららの系譜を辿ったような、主として和みを重視する作品を多く愛好しながら、実態はそこに潜む謎の部分を突き詰めようとしてしまう。
そんな自分が別ベクトルから愛好する作品『大家さんは思春期!』の、今日発売になった最新6巻を読了。
今回はタイトル通り。
ある方に勧められて購入したステラのまほう、現在発刊されている3巻までを読了。
TLに何度か回ってきたことのある記事1があった。
その中で「嘗て考察が殆どだった『サブカルファン』2たちの現在のコミュニケーションは『性的表現』3前提であるケースが圧倒的多数を占めている」という説が宜しくない意味で、そして両者を対立させる構図で展開されていた。
ボクにはそれが妙に引っかかった。
で、考えた。
結果として引っかかった理由がやっと分かった。
それは、考察と性的表現の可分性が証明できていないから。
3つ目のエントリーでも触れましたが、ようやくこのエントリーを書くことになりました。
25252。
にっこにっこにー。
ということで今回は、ボクがアニメ『ラブライブ!』(以降『ラ!』と表記します)を視聴する前から知っていた唯一のキャラにして、その主題を紐解く上で中核的な役割を持つキャラ・矢澤にこの主人公としての特性を、主人公の機能の1つ「主題の実行」という目線から見ていきます。
エントリーのテーマ上、今回は一見して彼女びいきの記事になるため、「穂乃果が(主人公|μ’sのリーダー)だろ!」とか「かよちんはどうしたかよちんは!」などと口走りそうになる衝動を抑える自信のない方はぜひブラウザバックをお願いします。μ’s目線で見れば、1期6話や2期5話で言及された通り「μ’sは全員でセンター」という認識も自分自身ちゃんと持ってはいますので。