考察を楽しく感じる性分で見る考察概論

Q. 何で考察やってるんですか?
A. 好きな作品の理解度を高めるのが楽しいから。

端的に言っちゃえば、気に入った作品についてボクはこういう思考で延々と読みを深めようとしています。
……まあ、こんなのを語るのも野暮ではあるんですが、いい機会だなと思ったのでブログ記事としてつらつらと。

作品の完成度と、考察余地の相関性

大前提として、ボクが気に入る作品は完成度の高い作品が多いです(特にブログで推薦記事を書いたやつとか!)。
そういう作品は得てして作中で全てを語り切ったりはせず、大なり小なり明言されない部分を残しておくもの。
上手いシナリオは直截的な描写を破綻なく行い、それより深層にある膨大な情報を示唆して読ませようとするのが上手いワケです。

その上で、ボクは「情報が全て開示される可能性の乏しい作品」を好んで考察しています。

始まりは「それを100%理解したい」

好感を抱いた。気に入った。親しくなった。
そういう相手のことを、もっとよく知りたいと感じるのは自然なことでしょう。
同時にそれは、相手を大切に思う形の1つでもあります。
物語だって同じ。
誰かがいて、別の誰かと出会って、問題が起こって、解決して。
そうやって生きている姿を描く物語もまた、生き物としての性質を多分に備えています。
ならばそれを気に入った時、もっとよく知りたいと感じるのもまた必然。
そんな風にしてボクは考察を始め、時々文章の形式で表現するようになりました。

親しい誰かのことをより詳しく知れたら、楽しいし嬉しい。
ボクはそう思っていますが、これをご覧になっている方はいかがでしょうか。

理解できなくたっていい、理解しようとする心を称えたい

じゃあ、理解できなきゃ楽しくないんですか?
……って聞かれたら、それはそれで楽しいです。(まあ嬉しいとは言えないかも)

分かろうとしている間の「分かんねえ!」は、「分かった!」までの段階的なステップ。
こと作品考察において、正解はないかもしれませんが明らかな間違いは当然あります。
全容が掴めなくても、間違いを潰していけば少しずつその本質に近づいていくことはできる
ここで挫けずにいけるかどうかは、人によって変わるかもしれません。

ただ、親しい相手のことを全部知ってるなんて、普通ないと思います。
自分以外の生き物なんて自分の思うままになんかならないのが当然です。
だから作品について考えて考えて、でも「分かんねえ!」ってなった時、ボクは結構笑ってます。
分からんことを笑える人もいれば、頭抱えて唸ったりする人もいるでしょう。そこは人それぞれ。

それでも好きになったら理解しようとするのはやめないし、やめられない。
理解したいと思う心、理解に努める意気がある人には、ここでボクからぜひとも言わせていただきたい。
あっぱれ!

間違うのは悪くない、間違いを正すのが大事

考え続けたけど分からない、なんてこともあります。
分かったと思ったら間違いだったからやっぱり分からない、ってこともあります。
そういう時は、同じように考察をする誰かが「間違っている」と教えてくれるかもしれません。
一方で、周りと協力しながら考察を深めていくのもボクはアリだと思っています。

最初から理解度が高い人なんていない。
深く知ろうとして考えに考えた知見を、山ほど蓄えている人はどこかにいるハズです。
きっと彼等彼女等も「考えてみたけど分からない、もっと理解したい」「これってこういうことだったのかな」という思いから考察を始めた人たち。
気に入った作品を必死に理解しようとしてきた有識者なら、同士の疑問には喜んで答えてくれるハズです(そうであってほしい……少なくともボクはなるべくそう心がけているつもり)。

その結果「こういうことだったのかな」が正解だったら、それはもちろんおめでたい。素敵ですね。
もし間違っていた時は、それを正すいいタイミングです。
間違うのは恥ずかしいかもしれないし、怖いかもしれない。けれど客観的な根拠でもって明確な間違いを指摘されたとして、きちんと謙虚に改める意思があるなら、それをあげつらって嘲笑ったりする人はそうそういないでしょう。
(絶対いないとは言い切れないのが難しいところですが、理解の途上にいて驕らず考察を深めようとする人を貶める行為は、ボク自身断じて容認しません)

そうして時には意見をぶつけ合いながら、考察を深めていく。
これこそが作品の本質に近づく理想の道のりだとボクは思っています。

意見や見方もまた人それぞれ

考察とは未解明の正解を探求する試みである以上、どこかで他者の考察とズレが出てくるのも不思議じゃありません。
そんな時は、お互いの考察を大事にしたいものです。

よく「解釈の一致」を喜ぶ向きが見られますが、ボクは「解釈の不一致」こそ喜んで楽しむべきだと思っています。
言うまでもなく「間違っていないけれど一致しない2つの考察」は成立するワケですから、お互いに「それもアリだわ、面白いな」と感じる懐の深さがあったっていい。
また、そういった探求を行うにあたって、1つの説に囚われすぎるべきではないとも言えるでしょう。
作品の理解度をより高めるには、対立する説だって頭の片隅に置いておいたほうがいい。思いがけないところで点と点が繋がる場合も多いですし、考察の観点をなるべくたくさんもっておいて損はありません。
そしてそれは、考察という試みそのものの目的が何なのかを見失わないためでもあります。

終わりに

余談ですが、最初に書いた「大前提」が覆ってしまった作品というのもままあると思います。それはそれで考察と別に扱い、重要視したいものです……

さておき、かく言うボク自身年1程度のペースで結構マズい誤読をやらかしたりするもので。
ありがたいことにボクの考察やブログ記事をご覧くださる方も一定数いるゆえ、申し訳ないなと(半分くらいは笑いながら)思っています。
もし客観的かつ明確な根拠を伴った間違いを見つけましたら、遠慮なくTwitter等でお知らせください。
これも、お気に入りの作品をより理解するために。

考察を深めていくのは茨の道かもしれません。
それでも好きなものを理解しようとする心さえあれば、きっと歓迎します。
どうぞいらっしゃい。

Written on June 3, 2021