共存というテーマの系譜:『ルギア爆誕』から『みんなの物語』へ

今朝、重い頭で覗いたTwitterのTLで、1つの告知がなされていた。
「『ミュウツーの逆襲 EVOLUTION』の予告ムービー公開」。
フル3DCGになって20年以上前の感動が甦る。ボクも『ミュウツーの逆襲』を見て、初見時どころか今でも色々と琴線に触れるモノがある作品。
しかも脚本には首藤氏のクレジット、ミュウツーのCVは再び市村正親氏が担当。

「嘘だろ、これは見なきゃ」
そんな嬉しい悲鳴をいとも容易く抑えて最初に頭を過ったのは、全く別の感想だった。

「何だろう、あんまり喜べない……」

正直、やってほしくない策だと思った。
20周年記念の『キミにきめた!』で1話リメイクを(個人的には不満も多々あれど)幾多のサプライズも込みで見事仕上げたポケモン映画が1年しか空けず再びリバイバルに縋るなんて、悲しいくらいに勝負の心を忘れていると思った。
絶対見逃せないのはもちろんとして、せめて25周年まで先延ばしにしてほしいと思った。
いつまで経っても首藤氏の影をポケモンに追い続けている身で言ったところであまり説得力がないけれど、いや、だからこそ別の結論に辿り着き、かつ当時に引けを取らない名作を生み出してほしいと思った。

そう思ったら、昨年の映画を見てみたくなった。
首藤氏の手掛けるポケモン映画2作目でタイトルを飾ったルギアが、どのような映画で銀幕に戻ってきたのか。
オリジナルの世界線で描かれるルギアの姿を、この目に焼きつけたくなった。

長い前置きですが、そんな理由から視聴した『みんなの物語』の話を、遅れ馳せながらしようと思います。

登場人物とポケモンたちの関係性

舞台となるフウラシティを訪れて今回も色々な出来事に巻き込まれ、数多くのトラブルを解決すべく奔走するのはご存じ主人公のサトシ。
この世界線でも彼は相棒のピカチュウと共にずっと旅をしており、やはり変わらず共存を体現している存在だと言えましょう。
一方本作のサトシは連れ立って旅をする仲間がいません。代わりに、様々なオリジナルキャラクターと風祭りで交流を深めます。
人間を憎んだゼラオラと接点をもち、気にかける少女ラルゴ。
イーブイをゲットしてほしいと弟にせがまれて風祭りに参加する、ポケモン初心者JKのリサ。
ポケモンに深い愛情と知識をもち、特性とわざの研究をする気弱な青年トリト。
姪を喜ばせるために嘘をつき、自分は強いポケモンを仲間にしていると騙る中年男性カガチ。
ポケモンと距離を置こうとする身ながらポケモンたちに慕われる老齢の女性、ヒスイ。
6人のキャラクターを起点に、本作の物語は進んでいきました。
風祭りの最終日にルギアが現れる伝承と、ゼラオラの呪いの謎を端々で意識させながら。

ポケモンにあるまじき不気味な構造

映画だけでなくアニメを通してもおそらく見られないであろう、気味の悪さをしている。
それが、ボクの印象でした。
本作、サトシは自分が関わった問題を行き当たりばったりで解決するのは当然の流れなんですが、その問題に軸の通った関連性が認められないんです。
別の見方をすれば、シナリオを牽引するキャラがいつまで経っても出てこない。
その役割はだいたい悪役か、タイトルに名を冠するポケモンないし伝説・幻のポケモンが担うモノ。悪役はシナリオ全体に影響を齎す特定の人物もいないし、キーポケモンは先述のように噂や伝承が認められるだけ。
途中まで、ともすればサトシの訪問を契機とした「登場人物の日常物語」と換言してもいいようなシナリオだとさえ感じていました。

そんな物語の、終着点は何だったのか。

登場人物「みんな」が繋いだ「共存」の「物語」

本作開始時点でポケモンと関わりの見えていたサトシ、ラルゴ、トリト。
反対に関わりの見えなかったリサ、カガチ、ヒスイ。
6人は他者との新たな繋がりを得て、物語の結末に向かいました。
そして街を飲み込む危機の打破を掲げ、ラルゴの父親である市長やたくさんの市民も協力。
同時にゼラオラの憎しみを払拭し、ルギアを迎えるためにも彼等は各々の役割を果たしていきました。

かつてWebアニメスタイルで首藤氏が行っていた連載をご覧になっている方なら、ボクが何を言いたいかある程度お分かりいただけるかと思います。
自分ができる役割を果たしたら自分たちの住む場所を守り抜くことに繋がっていた。『ルギア爆誕』で首藤氏が描こうとしたテーマです。
あちらのルギアは「私が幻であることを願う。それがこの星にとって幸せなことなら」と語りました。
こちらでは、ラルゴが「私たちって、ハンターみたいな悪い人がいるのも、ときどき間違ったことしちゃうのも分かってる」と語ります。
「同じ世界に住むからこそ、踏み越えるべきではない境界を守って生きていこう」と提示する『ルギア爆誕』と、「非力でも間違いをしても、みんなと一緒ならよりよい道を模索できるのではないか」と提起する『みんなの物語』。
結論は異なりますし、是非もあります。ただ、ルギアの登場する作品として、全く別の形で再び「共存」を扱ったところに、本作の大きな意義があると思うのです。

終わりに付け足しとして書き留めておきたいあれこれ

こんな前提みたいな事柄を〆に持ってくるのも悪い指向だと思いますが、本作も大きな問題点の多いシナリオだったと感じます。
「ポケモンを必死に救おうとし、それをしなかった人間に敵意を隠さない」ゼラオラに対し「自分たちの身のことで精一杯だった人間」代表になってしまったサトシが「友達になろう」と言いつつ直後にピカチュウへ戦闘を指示する、「殴り合って分かり合う友情」の流れは適切なのか、とか。
ポケモンを遠ざけていたヒスイがトラウマを克服する流れが荒唐無稽である、とか。
ゼラオラの伝承に関しても、あれを呪いと称したのはゼラオラへの報いになっていない、とか。
凶悪なポケモンであるバンギラスが、ゲットレースの捕獲対象ポケモンとして街を闊歩する現実性のなさ、とか。

とは言え、そんな見逃せない粗の一方で、「やっぱり見たかったのはこれだった」と大きく息を吐きもしました。
テーマはもとより、ゲットレースでバンギラスを追う、なるべく少ないカット割りで見応えを出したシーンには唸りましたし。
全編を通じて出張ってくる強大な敵がおらず、出てきた悪党が小者なハンター2人だけなのも、一般人レベルの人間ですら共存を破壊する悪意を心に秘めているという、前述のラルゴの言葉と呼応した巧みさの表れだと考えられます。
そして何より最後にスクリーンの中で羽搏くルギアを見ていたら、やっぱり思うところもありました。
なぜかと言えば、これでもファンの端くれだから。

求めているのは、リバイバルより、リメイクより、リスペクトつきのリトライ。 「みんな」の生き様から、そのことを強く感じ取ることにもなりました。
そんな前作からの『EVOLUTION』、はてさていったいどうなることやら……

Written on March 1, 2019