キミにきめた!
※当エントリーは現在公開中の映画『劇場版ポケットモンスター キミにきめた!』の感想をまとめたものとなります。
作中のネタバレを含みます。また、主に
前半部分は否定的な内容、
後半部分が肯定的な内容となっています。
ネタバレがアウトな方や気分を害された方は遠慮なくブラウザバックをお願いします。
また視聴後の高揚状態のまま書いている関係上、映画中の描写説明などに間違いがある可能性もあります。
気づき次第追記という形で訂正いたしますのでご容赦ください。
また当エントリーをご覧になってそういった間違いにお気づきの方はツイッターなどでこっそりとお伝えくだされば幸いです。
というワケで。
今日は外出の弾みにポケモン映画の最新作を見てきました。
ポケモン映画を劇場で視聴するのは、実に6年ぶりにのこと。
自分の知る限り、宣伝ではリメイクという側面が大きく押し出されていた上、脚本担当が脚本担当だった1ためあまり期待度は高くありませんでした。
では、視聴後の雑感はどうだったか?
まずボク自身の結論として、いい意味も悪い意味も込めた一言で先に述べたいと思います。
ポケモン至上最大の、今後への意欲に満ち溢れた問題作です。
どうしても拭い去れなかった “大人の事情”
ボクの感じた問題を纏めると、劇場版20周年であることを念頭に置いて「やりたかったこと」が、あまりにも雑多に詰め込まれていた、と言えましょうか。
まず、本作で旅を共にするゲストキャラの『マコト』『ソウジ』の描写が非常に甘い。
序盤のマコトは、サトシと競争するかのようにエンテイを追ったかと思えば、そのエンテイが逃げたらそれをそっちのけでサトシとバトルし、その途中での野生ポケモン絡みのトラブルを経て行動を共にするようになる、という流れで動くのですが、正直その “出会って意気投合するプロセス” がストーリー主導で描かれていた感が否めません。
また、ソウジは本人の過去が中盤で明かされますが、その説明はなかなかに大雑把。
オマケに作中で描写されたこの2人の設定は、作中の核心からはあまりにも遠いものでした。
本作が本編に対してパラレルワールドであろうという可能性は予測の上で視聴したので、カスミやタケシをパートナーとして置くべきだったとは考えていませんが、この2人が旅仲間である必然性もなかったように思います。
どちらかというとサブキャラであるボンジイに関しても、 “ホウオウを追いかけその伝説を本に纏めた” 以上の情報が皆無だったため、同じことが言えそうなところでした。
これらに関しては、20周年ということで劇場版恒例のゲスト声優枠を頑張って確保するための工夫だったという邪推もあったりしますが。
また、ロケット団の扱いにも少し不満がありました。
“ファンサービスの一貫” 以上の立場を与えられなかった彼らが出てきてはすぐさま吹き飛ばされて退散、という流れの繰り返しには、はっきり言って辟易。
あれは……1度出せば十分だったんじゃないかな……
と、ここまでは本作に対してのある程度客観的・中立的な目線から脱すれば、いわゆる大人の事情として納得できるものですが、これを踏まえた上で問題として浮かび上がるのは、本作の目玉ポケモンの1体であるマーシャドーでした。
作中ではホウオウのもとまでトレーナーを導くと同時に試練を与えるという役割のポケモンですが、出自の異なるハズの2体が本作中においてなぜそういった形でリンクしていたのかは深く語られませんでした。
ゲームと異なりアニメや映画では長きに渡り謎に包まれた存在だったホウオウを重視したという意味では、強い意味のある作品だったという印象はありますが、ホウオウありきでしかストーリーができていないと考えざるを得なかった本作は、新しい幻のポケモンのお披露目という意味では何とも割を食ったかな、というのも大きな印象の1つでした。
加えて、そういった要素を詰め込みすぎた結果として、中盤にかけては纏まりに欠ける脚本だったのではないかという点も、見逃せない部分だったかと思います。
例えば、本作中ではサトシが何を目指しているかという描写が複数あり、軸があまり定まっていません。
ポケモンマスターになりたいのか。
作中で語られる “勇者” になりたいのか。
とりわけこの2点は主軸として上げることが可能な程度には描写があったと感じましたが、逆に言えば主軸が2点というよく分からない状態になっているとも言えます。
せめてこれらをもっとはっきり関連づけてくれていたら……というもどかしさが個人的にあったのは事実です。
これでもボク自身、視聴後には制作に携わった方々への感謝を述べたいという心情は確実にありました。
ただしそれを素直に伝えられるかというと、それは欠点2に対して以上のような感想をもったため、不可能であったというのが正直なところです。
しかし、それに対して満足した部分も大いにあったのは間違いありません。
では、そういった不満点を凌駕する本作の魅力は、どのような物だったか。
連鎖する敬意
本作の魅力とそれに対する感謝を一言で纏めるならば、 “ここまで多くのリスペクト要素を盛り込んでくれてありがとう” というのが本音です。
これは問題点に通ずる部分も多いため、自分で書いておきながら皮肉のように感じたりもしますが、こうした言葉で纏めずして本作の魅力を伝えるのは非常に難しいと考えています。
言うなれば、表裏一体の美点と欠点というところでしょうか。
ひとまずそういう風に受け取っていただければ幸いです。
まず1つ目の魅力。
1話を再現した後は完全オリジナルなのだろうかと思っていましたが、そんなことはありませんでした。
具体的には、バタフリーやリザードンのエピソードを作中でリメイク再現しています。
特にリザードン関連の描写は、ゲストキャラでありながら作中の位置付けが明快だったクロスとの相互作用もあって、リザードンは本作中では一定程度描写に恵まれたポケモンの1体だったかなという印象です。
2つ目の魅力。
そのゲストキャラであるクロスに纏わる描写です。
アニメ本編でもリザードンはヒトカゲの時代に前のトレーナーに捨てられたポケモンですが、本作においてはそのヒトカゲを捨てたトレーナーこそがクロスという設定でした。
また、サトシから勇者の証を奪い取って終盤の展開のトリガーとなったのも彼。
作中でも示唆されていますが、この行動は彼なりの信念に基づくものでした。
そして現に、リザードンがサトシの前のトレーナーであるクロスを救うシーンもあります。
ボク自身はこの描写に対し「ヒトカゲ時代に自分を捨てたトレーナーを待っていたのはリザードンがクロスに強い信頼をもっていたからで、その忠義心はサトシのパートナーになってからも消えていなかった」、従って「クロスの信念もまた1つの真理である」ことを強調していると感じました。
いずれにせよ、”トレーナーがトレーナーとしてあるべき姿とは” という本作における命題の1つに照らした際、クロスもサトシと対立する立場として、ある程度恵まれていたキャラと言えるでしょう。
3つ目。
1話のリメイクという時点で言えることですが、本作は故・首藤剛志氏の影響を色濃く残しています。
例えば冒頭、サトシが見つめるテレビの中で戦うトレーナーは『ミュウツーの逆襲』からのゲスト出演でした。
更にその意味で1話と並ぶ例が、同作のセルフオマージュとも思しきシーンを含む終盤のシークエンス。
マーシャドーの操るポケモンに襲われ、ピカチュウに対し「モンスターボールに入るんだ、そうすればお前は助かる」と口にするサトシ。
ピカチュウはそれを振り切って多数のポケモンに電撃を放とうとします。
ここまでは、1話のオマージュであると同時に本作序盤の1話リメイクのオマージュ。
しかしそのピカチュウは電撃を放つことに失敗し、サトシともども再び深手を負います。
どうしてモンスターボールに入らないんだ、と再び口にするサトシ。
その目の前で夢か現か、サトシの言葉に対しピカチュウは不思議な応え方をします。
そしてついにピカチュウはモンスターボールに入りますが、ポケモンたちの追撃を受けてしまったサトシは透明になって消えてしまい……
というのが、一連のシークエンスです。
まずこの流れでポイントなのは、サトシに対するピカチュウの “不思議な応え方” の部分。
ボク個人の意見を述べるなら、ある種のタブー、しかも20数年間守られ続けてきた不文律をピカチュウがここで破ったのは、このような応え方をアニメ本編の大詰めに描きたいと生前語っていた氏の意向を汲んだと思いたいところです。
また、消えてしまったサトシが戻ってくる過程でピカチュウが見せた表情も、『ミュウツーの逆襲』において同じ表情があったことから、同じく氏の影響を受けていると感じました。
争うことを止めない生き物でありながらその争いを止めようとする矛盾に陥った結果として石化したサトシを、元の姿に戻した多くのポケモンたちの “それ”。
しかしそれは、本作においてそれはピカチュウのみが見せたものでした。
この辺りは、具体的にどのようなプロセスを経てその後の展開に繋がったのか、作中では全く説明されていません。
個人的には「マーシャドーが作中の伝承に従って災いを引き起こすことで否定した “ポケモンと人間の絆” を再び肯定し返すもの」と見ていますが、視聴時の記憶が曖昧なことも相俟って確たる証拠を示せないので、この議論は後々に委ねようかと思います。
閑話休題。
この3つ目の魅力に関しては、ボク自身も大いに高揚した部分でした。
もちろん大人の事情の効果もあり、決して本作の客観的な完成度に繋がっているとは言いがたいと感じたのも事実です。
しかしながら、これも含めた以上3つの魅力は、本作に奥行をもたせる上でなくてはならないポイントだったと思います。
終わりに付け足しとして書き留めておきたいあれこれ
ボク自身、リメイクというと普段はそれだけでアレルギーを発してしまう性質なもので3、本当にただの軽弾みで視聴した本作でしたが、個人的には前述のように “意欲的な問題作” という位置付けに落ち着きました。
脚本担当の方のやや否定的な評判にも触れましたが、氏は担当作品の設定を描写せず視聴者の想像に委ねる作風をもってもいて4、想像的かつ難解な側面を内包しておりもともと子供向きでなかったポケモンにおいては独自のよさとして作用したところもあるだろう、とボクは考えています。
また、果たして友情こそが強さを増幅するファクターなのか、それとも強さは強くなるという意志からのみ生まれるのか。
これは作中で示された中でも、とりわけ考え甲斐のある命題ではないでしょうか。
最後に、ファンの端くれとしての純粋な感想を。
やっぱり今回はカスミとタケシが旅仲間だったら嬉しかったな。
OPアレンジは本当に最高だった。
それと、メタ目線で20数年の時を経たホウオウとのバトルで、これまでの映画においてタイトルBGMとして扱われてきた楽曲が聞けたのはニクかった。
命題を果たし切る上ではあまりに短すぎたであろうことが想像に難くない尺の中で、ポケモン映画の新しい始まりを刻んだ本作に、僭越ながらひっそりと至上の賛辞をお送りいたします。
素敵な作品を本当にありがとう。