考察的妄想と嗜好的妄想

今日のボクは驚異に価する実例から面白い見方を獲得しました。

物語の登場人物を自分の中で動かす楽しみを知っている人たちの中には、「このキャラがこういう行動とったら(私が)たのしい」という考え方に基づいて空想をする人がいるそうで。

なんというか…「このキャラはこういう性格だと考えられるのでこういう行動を取るのではないか」という方向に妄想するタイプと「このキャラがこういう行動とったら(私が)たのしい」という方向から妄想するタイプでキャラ観や二次妄想にわりと分かりやすい違いが生まれるよなあと 前にも言ったなこれ

というツイート(元ツイート(1))に「後者」だと反応する方が割と見受けられたのでした。
考察を重視し妄想までが考察的である身、この場合に当て嵌めれば前者に属する身であるボクは当然ながら非常に仰天。  

ただこの空想の手法、ボク自身にとっては何も不気味というワケではなかった。
ボク自身が気紛れで始めたワケではない考察は、大体が後者=嗜好的妄想をする方の撒いた種から発想を得ているんですね。
実のところ、作品を多面的に見る上で既成の枠から食み出た妄想が新しい枠を形成するケースに立ち会うと、ちょっと嬉しかったりする。
それに、そもそも誰しも全知を持つべくもない以上考察には結局のところバイアスがかかってくることや、妄想が完全に自由になされているかを保証できないことからして前者と後者を単純に二分するのは無理な話とは言え、考察を重視している中で周囲各々の嗜好に沿った妄想から着想を得ることがある。
尤も作品の枠を捉える上ではなかなかに受け入れがたい物でありながら、そういったケースの存在は常に頭の片隅に置いているところでした。
そんな身であったおかげか、嗜好的妄想をする人たちがボクの周囲にも実際に存在したことを認識することができた、ということに対して、
これはなかなか面白い
と思ったのです。  

ここからはこれを読んでくださっている方には大切なのかどうか全く分からない、自分にのみ非常に重要な備忘録。
考察を重視するどころか妄想でも考察的であることを重視する身で、伝えたいことをどうやって伝えていけばいいのだろうか。
何かを与えることができたとしても、それは嗜好プロセスの近い人に対してだけ。
経験則から、考察重視の思考を持つ身で嗜好重視の思考を持つ方に伝えたいことを伝えようとしても、不可能に近いという事実がある。
これが一般論に拡張できることなのか、単に自分の力量に起因することなのかはまだ分かってないです。
ただ少なくともボク自身にはこの問題が突き付けられていて、まだ汎用的な解法は見つかっていない。
この現状、どうしようもなく苦しくて、どうしようもなく楽しい。
そうも思ったのでした。

ま、考察における考察なんて誰得感満載な上メタにも程がありますんで、今日はこの辺でやめにしときたいですね。
それにしても、「考える」ってのは結果もプロセスも面白いもんだから始末に終えないわ。

  1. 埋め込んだツイートが消されると本文が読めなくなってしまう可能性を考え、リンク提示の上で本文を引用させていただいています。当記事をお読みになった方の中で読みにくいと感じた方がいらっしゃれば申し訳ありません。 

Written on January 31, 2017