エピソードとしての2次創作はどのようにして生まれるのか
最近、妙に2次創作の是非に関して考えさせられる機会が多い。
某作品で2次創作をやっている界隈からなぜSSを書くのかという話がなされ、「はー、なるほど面白い」と思ったり。
またある界隈では某作品に関して、原作で満足しているから個人的には2次創作への興味がないとの談があり、「それも考え方としては不思議じゃないよな」と感じたり。
実は自分が参加している1次創作でも、予想される2次創作のうち製作陣の好まないカテゴリに入るものにどう対処しようかというテーマがちらりと出たこともあるし(もっとも客観的に見て、そこで出た意見が活かされる状況にはまだまだ程遠いのだが)、そもそも自分自身も2次創作で文字書きをしている身のため、この問いは避けて通れるものではない。
そういった状況を考慮した上で、イラストや同人グッズなど自分の手が出ていないジャンルへの不理解によって諸問題が生じないよう「ストーリー性のある、エピソードとしての2次創作」に範囲を限定し、一般的なスタンスを踏まえつつその中で自分自分のスタンスを再確認する意味も込めて少しエントリーにまとめてみる。
では先ず一般論として、ストーリー性を含む2次創作はどんなプロセスを経て生まれるのか。個人的には、
物語に存在する不連続性が根本にあり、
その中で自分が埋めたいと感じた部分を、
原典となるエピソードを受け入れ咀嚼する
という流れに沿った上でできているのだと思う。
物語の不連続性は半ば必然的に作られる
まず、小説、漫画、動画などの媒体それぞれにおいてこの不連続性は、まとまったエピソードをコンテクストに則した特定の時刻で分ける区切りとして存在している。
例示したこの3つで描かれる物語に共通して存在する、いわゆる<シーンの転換>は、小説なら <○○章>、漫画や動画(とりわけ雑誌連載の漫画、クール物のテレビアニメ)なら<○○話>という区切りもよく使われる。
そしてこういった区切りには、当然のように物語の空白=欠落した不連続な部分が付随してくる。
これらは、あるときは時間経過を示す手段として、またあるときは冗長なエピソードの描き方を避けるための配慮として、そしてまたあるときは受け手の解釈を促すための演出として、と言うように様々な用途で頻繁に用いられる手法である。
次に、描かれたエピソードは作品の全てであり、作品が提示する物語の全てではないということが上げられる。
これは前述の不連続性にも関連する特筆事項である。
このことに対して、今期アニメから取っ付きやすい具体例を上げよう。
『ステラのまほう』は、幼馴染の布田裕美音とともに高校に入学した本田珠輝が、奇天烈な名前の同人ゲーム製作同好会と出会うところから始まる。
『WWW.WORKING!!』では、東田大輔が父親の勤める会社の倒産を理由とした経済的事情からファミリーレストランでアルバイトをするところから作中の物語がスタートする。
これらは作者が生み出す世界観の中に設定された開始点であり、世界観そのものの開始点ではない。作品としての物語は、本来の世界観を描き出す上で必要な物としてスタートラインを引き、前述の通り様々な理由によって描くところと描かないところを定めることから形成されていく。
そしてまた必要により作中のゴールラインを決めたところで終幕を迎えるが、同様の理由でこのゴールラインも作品が提示した世界の終わりにはならない。
(1)以上のように、作品が提示する世界には多くの空白(2)が存在する。 ここで重要になるのは作者が物語を描く上で必要に応じて生じるこの間に何が起こっているかを解釈するかどうか、するのであればどう解釈するか、といったことは物語を受け取る側に委ねられているということである。
生まれるべくして生まれる欠落を含めたストーリーの受け止め方
1次的な創作者によって描かれたエピソードが全てだという考え方は至極当然なものであり、この点には文句の付けようがない。
これは作品に対する受け手としての純粋な愛の結晶であると同時に、物語を創出する立場と受容する立場の決定的なギャップの一端であると言えるのではないか、と自分自身は思っている(自分自身がよく使う言い回しをするのであれば、作品に対する思い入れの程度が違うのではなく、思い入れのベクトルが違う)。
お気に入り作品の1つにして自分が現状最も多くのSSを書いている『ゆるゆり』を例にする。
この作品はいわゆる日常系に分類されることもあるほど、まとまったコンテクストを持つ物語性に乏しく、時系列の進展が明示されないこともあってか同ジャンルの作品と比べても非常に空白の部分が多いので、エピソードの1つひとつが強い独立性を持っている。同時にエピソードの積み重ねが暗示されてはいるため根底ではその連携性も多分に存在する。このバランスに加えて、百合ジャンルにカテゴライズされるということもあり、様々な人物間の関係が比較的孤立したエピソードの中で描かれている。斯様な事情により、作品として描かれない部分(特にカップリングの側面)を想像するファンは多い。
しかしこの行動も、単に空白を補うという理由から直結している物ではない。概して、あるべき欠落を踏まえて物語全体を受け止めようとする2次創作者の意識の上には、1次的な作品が提示する物語への、別個の方向を差した思い入れがある。
自身の解釈・自身の中で再形成された世界観が絶対でないということは解っていながらも、「空白を埋めたい」「描かれていないところに存在する物語を描きたい」という願望を土台として、更に作品やその提示する物語への各々の愛や理解がエピソードの補完・創出を促す。
これが自分の目に移る2次創作、ひいては空白を埋める想像そのもののメカニズムである。
結びに、個人的な話を少し
自分が行っている2次創作はその多くが原作で提示された(=空白でない)エピソードに対する考察を基にしている。これは原作に対する見方を増やして理解を深めたいという欲であり、2次創作における一般論としてのモチベーションとは些か異なる部分があると認識しているが、作品への思い入れや理解に上乗せされていて、果たす役割は同じ物であり、エピソード成立の理由付けとして上述の空白を利用しているのも同じである。
そういった自分のスタンスや上述のメカニズムを踏まえて、エピソードを2次創作する界隈が不満を感じ取っているのではないかと問われると、完全に否定することはできないと自分は思う。
しかし仮にそれが内部で限定された物語を描くことによる作品への不満であったとしても、物語を提示する作品そのものへの不満ではない。
物語が作品の形を取るときに削ぎ落とされたエピソード、あるいは作者が不必要だと感じたエピソードの中にも、登場人物の動きや物語の全体像に新たな見方を提供するものがあるという考え方や、それらの前では作者さえも全知全能の神ではないという認識や、ある世界で展開される物語が作品の形を取るまでに経なくてはならないプロセスとも合わせて、以上のような見方が(共感されなくても良いが)より広く理を認められることを願ってやまない。