対等に近づいていく物語:『ぎんしお少々』における姉妹間の心理変遷(塩原姉妹編)

「トイカメラ」「写真」をテーマとし、登場人物が見せる生の思考、発話、有り様を野心的なほど丹念に描いた漫画『ぎんしお少々』。
本作はその秀逸な出来に、一介の作り手であるボク自身強く感銘を受け、また楽しむこともできる作品となりました。
物語や登場人物を描くことに一家言ある身ながら、それでも一読者として布教記事を書くまでした本作は、人物描写も決して無闇に説明的な表現をせず、結果として物語全体までが、何度読んでも新たな気づきに至り得る、懐の深さをもつまでになった漫画でもあるワケ。
そのため、ただ布教記事を書くだけでなく、考察についてもそのうち記事としてまとめたいと常々考えていました。
……そう思ったのが、もう1年半前だったか

1巻当時に公開した布教記事以来、ふせったー等で考察の切れ端を含めた感想は投稿していたハズでしたが、結局こんな年越し目前の時期になってしまいました。
とは言え、もうじき開催となるC101では、『ぎんしお少々』作者・若鶏にこみ先生の作品を扱った合同誌が頒布となります。若干狙っていた感は実のところあるこのタイミングで、ワタクシとーます・らむだきーも負けじと、今回『ぎんしお少々』の記事を投下しようとようやく重い腰を上げることとなりました。
そんなワケで、今回は特に気にかけていた考察の1つを纏めていこうと思います。

「お姉ちゃんは『心配しているだけ』」

主要人物中最年長、物語開始時点で社会人になり立ての、塩原まほろさん。同じく主要人物にして、一話から中心人物の一人となっているもゆるさんの姉でもあります。
そのもゆるさんを常に慮っているのは言わずもがな、双子の妹をもつ姉としての望みと一個人の我 (我欲) の間で揺れていた、隣人の藤見鈴さんに対しても、人生と趣味の先輩に当たる視点から助言を送っていたり、アルバイト先で自身を思い慕うようになった高校生の若葉谷セツナさんにも年嵩としての対応から始めていたりする辺り、まほろさんが人格者であることを疑う余地は全くないでしょう。

一方でもゆるさんは、姉であるまほろさんの振る舞いに対し少なからず不満を抱いている一面がありました。
まほろさんに異を唱えるもゆるさんの姿は要所で見られますが、最も大きく窺えるエピソードと言えるのは17話。まほろさんはもゆるさん本人に対し「一個上手くいかないと全部ダメ〜ってなる」と直接評し、それを受けたもゆるさんは「お姉ちゃんも私の事を純粋に見くびるなあ」「やっぱりこの人を驚かせてみたい」としています。
当のまほろさんは19話で (反目の意図や悪感情はなかったと言えど) 無連絡が続くもゆるさんに寂しさを募らせていながらも、その心理に自力では思い至れず。このすれ違いは結果、そのまま2巻の締め括りまで尾を引く結果となっています。
ここには、まほろさんの「姉である自分」本位な一面が紛れていると見て然るべきです。

微かなれど確かな、まほろさんの自分本位

もゆるさんがまほろさんに異を唱える一幕の多くは、姉として心配な思いを寄せるまほろさんが、その余りもゆるさんの意に寄り添えていない一幕と一致しています。
8話回想にて語られた、もゆるさんがまほろさんからフィルムトイを譲り受けた際の経緯によれば、もゆるさんは入学祝いとしてスニーカーかコートを所望しており、そのことはまほろさんも知っていたハズなのですが、まほろさんはそれを意に介さず、自身からもゆるさんに向けた懸念のみに基づき、いの一番にフィルムトイを渡したのが真相なのでした。もゆるさんの所望はもゆるさんの回想でしか語られず、まほろさんの回想にその場面が存在しなかったことからも、それは象徴的に映るでしょう。
先の17話も同様に、まほろさんの不安感ともゆるさんの不満は両立された一幕となっていますし、まほろさんがもゆるさんに対して自身を指す時、一人称「お姉ちゃん」を用い、殊更に年上のきょうだいであることを強調した上で助言を行い、それにもゆるさんが抵抗感を示す構図もやはりしばしば見られるものでした。

もゆるさんの本意

妹が多感な時期をどう過ごしていくかに思いを馳せ、懸念要素があればそれを取り除きたいと考えて行動する意図は、決して理解できない意思ではないことでしょう。
では、姉であるまほろさんがそのような思いを抱いていたのに対し、妹のもゆるさんが望む理想的な在り方はどのようなものか。
15話や17話から「敬愛する相手が驚いてくれる境地にまで至りたい」といった風の思いは窺えますが、その心理にまつわるより端的かつ直接的な描写が存在します。

19話終盤、まほろさんの回想にて、スモックを着た (未就学児と思しき) もゆるさんが、小学生のまほろさんの身につけているランドセルへとしがみつき「おねえちゃんとおんなじがいい……」と語っていました。
その後「そのうちあげるから……」とするまほろさんに、「おさがりは……やだ……」とむくれるもゆるさん。これに通ずる一幕としては、17話「わたしが今のお姉ちゃんの歳になったら見くびらない?」「それはまた違うじゃん」なども前フリとして上げられるでしょう。
早い話、もゆるさんが抱えるのは、まほろさんと “今その時” 同じ目線に立ちたい、対等でありたいという思いでした。
その思いをもっているもゆるさんにとり、まほろさんがよく示す「背中を追う側・追われる側」の関係性に甘んじて見守られ続けるのは好ましくない。
その中には15話のように、カメラを通した互いの立場も含まれていました。だからもゆるさんは、まほろさんに一目置いてもらうための一計として、フォトコンテストという秘密の策を練るに至ったワケです。

継承と飛躍

フォトコンテストの話を知らされたまほろさんは「もゆるもきっとコンテストみたいな場には合わないタイプ」「それで私みたいに撮らなくなったら勿体ない」と、その内心について尋ねてきた鈴さんへ打ち明けています。
ポイントは、やはりここでも自身の観点のみに基づいてもゆるさんを心配している点。その心理が決して理解できないものでもなかろうことは再三強調しておきますが、やはり悪癖と言えば悪癖であることも否定し切れない様相です。大人であるまほろさんはまほろさんで自身の視野を狭めていた、なんて形容したりすると露悪的になるかな。なるかも。
さておき、自身の観点に固着する人であればあるほど、そこにただ第三者の観点をぶつけるのみでその悪癖から解放するのは至難。鈴さんは『「シャッターを切る事が楽しい」だけで写真を撮る動機になる』のだと答えていますが、これはもゆるさんを見つめる上での安心材料として機能しているものの、まほろさんの根幹となる観点を押し広げたとは言えません。平たく言えば、不安をその根底から解消し得るアンサーにまではなっていない。

しかし結論から言えば、まほろさんはもゆるさんを見守る際の視野狭窄から解き放たれたと言って良いでしょう。
そこには、他ならぬもゆるさんがフィルムトイを扱うようになって得た気づきがありました。
26話、もゆるさんは「お姉ちゃん専用の展示会」を催し、一頻り写真の解説をした後で、まほろさんにこう語りかけます。

そういえばさ……お姉ちゃんの言ってたことホントだね
『カメラを持つと景色が特別になる』 景色だけじゃなくて……起こった事とかも全部……特別にできるから もっとホントだった

もゆるさんはまほろさんの教えと手解きを受け、フィルムトイを提げて写真を撮る中で、まほろさんから譲り受けた心得を継承するのみならず、次のステップへと己の経験で進めた。
そしてこれは、まほろさんにとっても新たな気づきであり、同時に自身のカメラ歴を肯定してもくれた。自らの教えが、自らの文脈で、自らの妹によって飛躍を迎えた時、まほろさんは自身の観点を捉え直し、真に後悔と不安からも解き放たれたのです。

対等になれた後の塩原姉妹のやり取りは、決して直接的に見せられているとは言えません。
ですがそこには、きっと互いに敬愛をも含みもつようになり、一目置き合っている二人の姿があったことでしょう。

終わりに

……しかし、この一連の出来事を経て、まほろさんからもゆるさんに「撮らないの 写真、記念写真」と聞いているのはやっぱりグッときますね。

すみません!今回ちょっとアルコールが回ったまま、ずっと頭の中にあった考察をようやっと文章に起こしたので、些細な引用ミスや誤字脱字は普段以上の確率で存在するだろうと想定していますし、また記述の不足がある可能性も考えています。
もし何かありましたら、いつも通りTwitterなどでそれとなくお伝えいただけると幸いです。後で追記修正頑張ろ……

それから、最後に書いておきたいのはやはりこれ1つでしょう。
C101の1日目に頒布される「若鶏にこみ先生合同」。こちらでまた同様に『ぎんしお』関連の2次創作や考察等々もたくさん見られるハズです。
ボクのほうからも「ぜひそちらもご一緒に」と推薦した上で、筆を置かせていただきたく。

Written on December 27, 2022