意味はなくても後から見出せる:海を巡る旅は終わり、そしてまた始まる『旅する海とアトリエ』26話
23話以降の本作には正直ずっと、非常にやきもきさせられっぱなしでした。
直前の回で「海ちゃんと絵を描きながら旅を続けることしか今は考えたくない」とまで言ってくれたりえちゃんの、当回における「日本に帰ろうと思う」発言。
オーストリア・クロアチア編の進みが幾分早めに感じられた中で(それでも22話まで最低限押さえるべきところは押さえられていましたが)、そこにきて既出描写だけでは因果関係の繋がり切らない心変わりが発生したワケです。
無論推測はできますが、描かれないことが理由の根本に据えられている「仮定起点の読み方」は大きな見当違いで終わる可能性が飛躍的に上がる関係で、ボク自身あまりやらないようにしている(せいぜい2次創作でシミュレーションとしての意味合いをもたせる時くらい)だけに、とても困惑する羽目になってしまいました。
その大きさたるや、22話以前でも若干あった「このまま終わってしまうのでは?」という不安がその時点で確証に変わってしまったことさえ優に超えてくるほど。
そんな中での最終26話。
結論から言えば、これまでのエピソードを締め括るモノとしては非常に素晴らしかったと思っています。
日本に一時帰国しようと決めたりえちゃんの真意
26話でりえちゃんから海さんへ渡された画集『旅する海とアトリエ』。
作品タイトルをここで回収したのはひとまず置いておくとして、この画集にはいくつもの意味があります。
まず、りえちゃんが「誰かに任せるんじゃなくて全部自分で決め」て出す画集であること。
りえちゃんが描く絵の商業的価値にしか目を向けず、その行動をとかく握っておきたがった母親からの脱却です。
「一緒に旅をしたときに描いた絵で今度画集を出す」と言われているところから、母親としては別の既存作、ないし誰かから依頼された作品などで出させようと意図していただろうことは想像に難くない。
りえちゃんが声をかけられたのだって母親経由だったのかもしれません。しかし画集について全部自分で決めたとなれば、そのルートも蹴ったことになるでしょう。
つまるところ「この画集が出た=りえちゃんが母親との確執を解消できた」ワケです。
「私には(母親から)逃げるなんて無理だったのかも」と20話において心中で弱音を吐いていたりえちゃんが、22話では海さんから「誰かにとって意味のない絵だって描いていいんですよ」と励まされたことで、意味のある絵だけを描くよう押しつけてくる母親に対し、逃げられないならばと真正面から向き合う勇気を得られた。
母親に何も言わないまま旅を始めたほど行動が早くバイタリティも高いりえちゃんのこと、心さえ決まったなら先にけじめをつけてから再び海さんと旅をする選択を取るのも頷けます。
ここら辺、動機のあと一押しが作中で紡がれてなかったのが、りえちゃんに関しては解釈でなく推測、もっと言えば願望の域を出られなかった終盤に対する不安感の根源でもあったんですが、可能な限り26話で押さえられていてまず一安心しました。
「海ちゃんに一番にもらって欲しくて」
海さんの名を冠する画集『旅する海とアトリエ』。りえちゃんが海さんにこれを渡そうとしたのって、いつだったのかなーと考えたりしています。
思い返せば、りえちゃんって海さんに絵を渡したことがなかったんですよね(絵を描く意味に囚われすぎていたのを考えるとそのほうが理想ではありますが……)。
海さんと出会ったことで「またわたしの世界が描きたくてたまらなくなるの」とまで心境の変化があったにも拘わらず。
意味のない絵を描き、それを自分の意志で誰かに渡したのは22話が(少なくとも作中において)初めてでした。
そんな同話のラストには、今思い返すと興味深いやり取りがあります。
りえ「誰かに絵を贈ったの初めてかも」
海「ええっ 私も欲しいです!」
また23話には、りえちゃんのこんな言葉も。
「自分の絵で誰かが喜んでるところ あんまり見たことなかったし……」
先の画集が海りえ両者のための物であることはタイトルから一目瞭然ですが、りえちゃんが絵描きとして何をしようかと改めて考えた時、海さんへ向けたプレゼントの意味も込めて画集を出すという選択をした、その直接的なきっかけがあるとするならこれらだったのだろうなと思っています。
更に言うと、りえちゃんが急遽帰国を決めたのもいち早く海さんにそのプレゼントを贈りたかったから……かもしれない。そうだとしたら美味しい(願望)
海という名前の意味と、海を巡る旅の意味
過去の記事でも散々登場人物の負った傷ヘフォーカスしてきましたが、結局のところは自身の基底に空白をもつ海さんが一番深い傷だったのかもしれません。
とにかく、海さんに底知れない何があると予々踏んできた身としては、これもまた注目したいポイントでした。
両親を亡くし、その後名前絡みでいじめまで受け、ずっとその名を肯定されることのなかった海さん。
生まれて最初に貰ったモノの意味がこれほど希薄なままでは、ある意味アイデンティティそのものを否定されているも同じ。
そんな海さんだから、りえちゃんに「意味のない絵だって描いていい」と励ませたのかもしれない。海さんの表面には、割と楽天性やポジティブさが多かった。
一方その裏には、自分の内にある意味を何も見出せず前を向くことのできない海さんもいた。
「この写真の向こう側には何もない気がしています」
「写真の場所を見つけさえすれば満足できると思っていた自分の世界が 突然狭く見え始めたのです」
でも海さんはその真っ直ぐな言葉と行動で、素敵なモノを確かにもたらしてきた。
「エマさんはいつも笑顔にしてくれるから 笑うって文字が使いたくって」
「……マリアさんって自分のこと暗いって言ってましたけど 私たちがナポリを楽しめるように考えてくれててすごくいい人ですね!」
「わたしが好きなアンナさんは もう一度あたしと組みなさいよバカ! くらい言ってるはずでしゅ!」
「意味なんてなくても わたしはりえさんの絵が好きだから」
こうして踏みしめてきた道程の意味を裏付けてくれるのが、24話で日本へ発つのを見送ってくれたナタリアンナや25話で寄り添ってくれたエマリアの姿。
そして、26話でりえちゃんから手渡された画集『旅する海とアトリエ』でもあったと。
海さんに触発されてりえちゃんが描いてきた、海を始めとする絵の数々は、海りえが揃って歩んだ旅路の軌跡。
同時にりえちゃんが自分と向き合う中で自ずから生まれ、その先の意味を元よりもたなかったモノたち。
りえちゃんはそこに海さんの名前をつけ、海さんへの思いを込め、自身を救ってくれた海さんへの贈り物という意味を与えました。それはともすれば海さんにとって無意味だったかもしれないヨーロッパでの旅に、ひいてはこれまでの海さん自身に、確固たる意味を保証してくれたのと等しい。
だからこそこの画集は、旅を経てすら「空っぽ」に苛まれてきた海さんをして「世界に足がついた」と思わしめる、これまでの海さんを肯定してくれる物にもなったワケです。ここが本当に素晴らしく、また強く心を打ってくれました。
りえちゃんから海さんへ贈られたプレゼントとして、このタイトル『旅する海とアトリエ』はこれ以上ないほど相応しいと言えるでしょう。
海さんとりえちゃんが行く旅のこれから
さて、こんな感じで締め括りでも、可能な限りロジカルさとエモーショナルさの両面で魅せてくれた海リエですが、また新たな旅を始める最後のシークエンスについても色々と……もちろん願望は願望として……
というかそもそもこれ、時期的にはいつぐらいなんでしょう。飛行機乗って海外に出るとなると服装では判断しづらいし。
まあ何にしても、なるべく早くまた二人旅をするつもりではあったのでしょうね(ちょっと願望)。
で、まず目を魅くのはやっぱりヘアスタイルの大胆なチェンジ。「空っぽ」の呪縛から一段階逃れられた海さんがバッサリ短くしてるのがとても感慨深い。りえちゃんのほうは……ツインテールが高いことでエマさんやナタリアに侮られていた(?)節があったゆえの変化でしょうか。
また、当記事ではここまで結構悪しざまな表現を続けてきたりえ母ですが、りえちゃんに土産を預けた辺り距離を置くのではなく和解の方向に進んだようで。りえちゃんの絵に見入られすぎて目が曇っていただけで、根っから悪い性格の人物ではなかったのかもしれません。
そして海さん関連。
最後の最後では、自身の名前「海」を好きになれた様子が描かれました。ここに関してはちょっと思うところありまして……
これまでの道程が意味を見出され、肯定されたとして、果たしてそれで「自分の象徴であり幼少期から嫌い続けてきたその名前を好きになれるのか?」と考えた時、やはりその過程をもっと緩やかに、詳細に見たかったという思いは拭えません(22話では「りえさんに『海ちゃん』って呼ばれるの好きなんです」とあるもののこれは条件として非常に限定的)。
何より、海さんがところどころで「空っぽ」と明確に異なる表情(「怖い」と評されたりした側面)を見せていた点は、本作が続きさえすればどこかで掘り下げられたのではないかと思うばかり。
この辺りは26話を噛み締めているうちに憶測が生まれもして……。
※※※※※
自分の名前でいじめられた
↓
自分の名前を肯定してくれる人物がいない
↓
自分自身を否定されたまま
↓
自己の不安定化、空っぽになる
↓
尚もいじめられ続ける
↓
海さんの優しさをもってしても防ぎ切れなかった悪意が入り込む
↓
素直で真っ直ぐだった海さんは悪意の見せ方においても真っ直ぐになってしまった
※※※※※
……みたいな(重ねて言いますがこれらは妄想なので笑い飛ばしていただけると)。
まあ何にせよ、物語の決着としては不満も粗もなかった。裏打ちがあって海さんも前を向けたワケですから。
ずっと迷い続けてきた海りえそれぞれが大切な物を得て、また旅が始まる海リエ。
本当に素敵な物語をありがとう。
りえちゃんと海さんの対称性<11月26日追記>
周囲から意味のある絵を描くよう求められて逃避行に出た結果、意味のない行動を取るのが最適解だと気づいていったりえちゃん。
自身に生来の意味が認めてもらえず、その意味を求めて旅を始めた海さん。
思えば2人は鮮やかすぎる好対照を為していたんですね。
加えて、この2人の間に生まれた関係性は「信仰」である、とナタリアによって評されていました。
2人が旅を始めた動機に対する解答は、ちょうど相手がもっていたワケです。だから信仰の対象になった。
ナタリアがどこまでを察して「信仰」としていたかは分かりませんが、おそらく海さんからりえちゃんに向けられていた思いの中にも信仰はあるのだと見ていいでしょうね。
とても残酷です。
ここまですれ違っていたからこそ、りえちゃんは「助けてよ海ちゃん」と独白してから海さんに気づいてもらうまでに一定の時間を要した。
海さんも海さんで、当人からすれば唐突に「日本に帰ろうと思うんだ」とりえちゃんから告げられた。
おそらく、2人で旅を続けても、お互いの生い立ちを深く語り合ってこなかったら、2人は助けを求めることも、救いを得られることもなかった。そんな可能性は大いにあります。
まあ、人と人との関わり合いは往々にしてそんなもんです。
やはり「旅は自分を映す鏡」なんですね。誰かと連れ立っていたところで、そう簡単に誰かから救いを受けられるワケじゃない。
出会って別れてを繰り返し、1人で自分の道を歩く。それが本当の旅です。
だからこそ旅は人を引きつけるのだろうなと。
こうして見ると、驚くほどにドライな物語なのかもしれません。『旅する海とアトリエ』。
でもそれゆえにこの物語は、そしてこの物語が導いたロジカルな着地点は美しい。