正しさを信じる力

正しさが暴走するこのインターネットは早急に滅ぶべきである」と言われても「滅ぶべきとする対象が違う」としか言いようがない。
インターネットは正しさの暴走を顕著にする要因の1つであって、それがなくとも暴走の実例は存在している。
現にどこかの小学校の帰りの会にも正しさの暴走があったことは、この記事でさえ言及されている。

「正しさの暴走」とは要するに力の暴走であって、正しさを信じる心が力をもった結果のうち悪しき実例だ。
個人の力ならともかく、共同体の力は意識が難しい。共同体の全容を個人である構成員では往々にして把握し切れないから。
ゆえに共同体を構成する個々が力の存在に無自覚になるし、場合によっては進むべき方向を誤る。
そんな誤った力が存在する一方で、力に対抗し得るのもやはり力だ。
同時に、相対する力と然るべき形で衝突し合えること、認め合えることも力だ。
力は比較対象があってこそのものであり、劣った力を駆逐し続けた先では力も無に返る。
力=正しさをそうあらしめるものこそ、相反する正しさそのものというワケだ。

もちろんこの論理が「正しい」とも言い切れない。
よしんば正しかったとして、この「正しさ」も暴走すればいずれ自分の身が滅ぶだろう。
ただ、正しさの不安定性を明かそうとし、なるべく数多の正しさを包括しようとしている以上、自分の信じる正しさに排斥されるのは少なくとも排斥する側に回るよりは吝かでない。
それに元より自分自身が本当に滅ぶべきとする対象に対して諦観しているので、滅ぼされようと個人としては何ら問題もなければ影響もないことだ。

ただ、1つだけ。
やはりインターネットが滅ぼうと、正しさの暴走がどこかで起こり得るのは間違いない。

Written on June 10, 2019