「無敵の人」に見る、論理と感情にある関係の仮説+

結論ありきで仮説を思いつくのって結構悪癖だよな、と思いつつ。
「非常識な行動」が生まれる理由っていうのは、当人と周囲の視野が違いすぎるからだと思えてきた。

失う物がないのなら、もっと建設的なチャレンジをすればいい。
そういう思考にならなかったのは、「無敵の人」側の視野狭窄なワケ。

一方、周囲は周囲でその多くが「どうして人を巻き込んで死のうとするの?建設的なチャレンジをしようよ、でなきゃ1人で死ねばいい」という論調になる。
これもまた、周囲の視野狭窄であって。

非常識な行動を取る側にも、それを見る側にも、その結論の理由に視野狭窄がある。
視野狭窄を自覚せずどこかへ偏った結論を急ぐこと、これこそが「感情的」あるいは「理性を失った」状態の本質なんじゃないか。

もっと今朝のあの痛ましい事件に則して言うと

「犯罪者が発生しないように社会が配慮すべき」論は「矯正不可能なほど一般人の思考から逸脱した輩」を野放しにするも同然。
「犯罪者は不適合者なんだから社会から排斥すべき」論は「不適合の基準が暴走した結果更に生じる犯罪者」を増加させる懸念がある。
要するにどっちもどっち。

じゃあどうすればいい?
答えは簡単で、社会が議論を尽くせばいい。
都合のいいことに、現代社会は民主主義におおよそ席巻されている。
だから多数派の意見も少数派の意見も尊重した上で、穏健派と過激派双方の論調を共存させる。
そのバランスが、潜在的犯罪者への対応策の暫定解。

そんなこんなで、(学術的な厳密性を欠くであろう記事ではありますが)過去記事の「社会心理的なバランスを示す関数」を応用した結論(になってない結論)も提示しておきたい。
いやそれとも、もっと根拠を伴って理路整然とした記事も後々目指すべきかなー……

Written on May 28, 2019